父親代わり

 

 

 

ボガテル・ビーチでスケボーをするイキのいい少年たちを眺めながら、ふと、吉福伸逸さんが晩年を過ごした「ハワイのコミュニティ」の話を思い出した。

 

 

日が暮れた後のボガテル・ビーチには、まだたくさんの人がいた。

ビーチ沿いを歩きながら、「バルセロナって、子育てしやすそうだな」と思った。

 

どういうわけか、最近出会う「このひとはいいなあ」と思う友人には、シングルマザーが多い。

こどもの話を聴かせてくれることもあって、その話を聴いてるとけっこう感心する。

 

ここ数年ずっと、「まちづくり」や「コミュニティ」に関心をもって色々と探求していた。

「共同体」の思想をつきつめると、結局のところ、「次の世代に何を残せるか」という話に行きつく。

「こども」のために生きてる人は強い。

それは単なる「エゴ」と裏腹でもあるけれど、それでもやっぱり「母が子を思う気持ち」には、人間にとっての根源的な「何か」がある。

 

人間の集合体である「まち」も、「次の世代に何を残すか」という観点では結局おなじで、だから「まちづくり」について考えるとき、「子育て」という視点をはさむと、気づきが多い。

というより、「まちづくり」というのは、つきつめると、「集団子育て」みたいなものなのではないかと思えてくる。

 

 

「こどもを一人育てるには、村一つ必要とする」と、吉福さんが言っていた。

心理学の説明に違和感をもつことがあって、その違和感を、彼のこの言葉が解いてくれることがたまにある。

「愛着理論」が典型だけど、幼い頃の親子関係に「パーソナリティの歪み」の原因を求めすぎるきらいが心理学には多々あって、その言説に、多くの人が「負わなくてもいい罪責感」を負わされているようにみえる。

 「そんなの気にしなきゃいいのに」と思いたいけれど、猫も杓子も「愛着障害」やら「発達障害」やら言ってる世界では、そういうわけにもいかないのはちょっと考えればわかる。

 

生まれたての子を養育するのは母親が担う役目だし、その期間が大切なものであることには変わりないけれど、人間は「幼少期の育ち方」によって全てが決まるものではないし、たとえそこで「歪み」をもったとしても、それを補正していくことは十分に可能だ。

それに、そもそも子どもが持つ「本来性」は母親にコントロールできるわけではないし、生まれ持った資質や性格を他人が変えることなんかできない。

また、日本の多くの都市に限って言っても、そもそも母親が安心して子育てに取り込める環境も全然なくて、こどもの安心以前に「母親の安心」すら確保できない社会で、どうして子どもが育つんだろう。

「母なる自然」もやせ細る一方で、「母なる社会」なんてもってのほかで、そんな社会では仕方がないことだとも思うけれど、本人もまた「ただの人間」でしかない母親へ責任がどんどん押し付けられていく。

 

 

「責任」に関していえば、後からこども本人の「意志」次第でどうにでもなる。

人は誰しも、生まれがどうだろうが、育ちがどうだろうが、自分の人生に自分で「責任」を持つようになれる。

簡単なことではないけれど、生物学的な基盤にも心理学的な基盤にもよらない「責任」と「意志」のありかを発見することはできる。

ただ、気に食わないのが、その「意志」を本人が発見していけるような場所もほとんど用意できてないし、それが全然知られていないのだ。

 

 

そもそも人間は不完全で生まれ、不完全で生まれた母親もまた不完全なまま子育てをする。

「よい父親」がいれば子どもが育つかといえば、そういう場合もあるだろうけれど、そんなのはごくごく少数の例外であることは周りを見渡してみれば明らかで、結局のところ幼少期における父親の大きな役目は「母親を安心させること」なのだから、それが「生物学的な父親」である必要は別にない。

男としてはちょっと悲しいかもしれないけれど、「機能としての父親」なら、いくらでも変わりがきく。

その「機能としての父親」の延長線上に「まち」はあって、母子を安心させる機能が「まち」のベースには必要なんだと思う。

父親代わりとしての「まち」が、必要なんだと思う。

 

 

そんなふうに考えていると、ポブレノウの雰囲気は「子育て」の観点から、とてもイイと感じた。

海のそばで、たくさんの人がリラックスしているのを眺めて、そう思った。

 

爆音でスピーカーを担ぐチャリンコの兄ちゃん、素っ裸でシャワーを浴びるおばちゃん、BMXとスケボー集団。サッカーバレーをしながら爆笑する男4人、信号待ちでキスをするカップル、アコギを弾くメガネ男子、チャリンコに乗りながらPhone片手に動画を撮る女子4人、スケボーで爆走しながら手を繋ぐカップル。

 

総じて誰も他人のことなんか気にしてなくて、でも、みんな他人に優しい。

「自分は自分でいていいんだ」と思えているから、「他人は他人でいい」と思えてるんじゃないかと、側から見て感じる。

 

こんなふうに人が育つ街は、一体なにを残して、何を育てて、そして何を捨てているのだろうか。